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    反「法医工文」論?

        当年考硕士面试,是数学科相关的老师们都坐在下面,学生一个人站在黑板前,老师问,学生答。当然要问的一个问题是:你为什么选择代数几何?我当年想也没想脱口而出:かっこいいから(因为很帅啊)!然后坐在下面的老师中有一位放声大笑,从那一刻起我就喜欢上了这个人,后来选他做了导师。
        你可能看过一些介绍费马大定理的科普读物,然后可能会在某个不起眼的段落找到一个叫宫冈洋一的名字。曾经有一度宫冈以为自己证明了这个定理,可惜后来发现这个证明是错误的——用这个方法只能证明方程没有无穷个解,而不能证明它无解。我当年读到这个的时候还是一个无知的高中生,不知为什么就记住了这个名字。真的,我后来甚至不记得怀尔斯,但是却记住了宫冈洋一。(不过印象最深的当然要数伽罗瓦和谷山丰啦——这两个人的魅力对于青春期的热血少年来说是无法抗拒的!)本科考进东大以后,头两年是不分专业的所谓“自由教育”阶段,曾经有一回我在学校的通知栏的角落里看到有给某个班上微积分课的老师的名字叫宫冈洋一。当时的反应:1、啊原来这个人还活着!2、原来这个人在东大!3、原来他还教这种基础课!4、这个宫冈洋一就是那个宫冈洋一么?在当时我甚至不确定自己将来会进数学科,当然做梦也没有想到过宫冈洋一会在两年后成为我的导师。
        不过曾经发表过一个错误的证明完全不是什么光彩的事,尽管它让我记住了一个名字。你大概不知道的是 Bogomolov-Miyaoka-Yau 不等式,这里的 Bogomolov 就是那个 Bogomolov(这个名字一看就是个厉害人物……),Miyaoka 就是宫冈,Yau 是 Calabi-Yau 的那个 Yau —— 在丘成桐证明Calabi猜想的那篇著名论文里,首先就是一堆眼花缭乱的先验估计,作为一个推论得出了这个不等式。而在此论文发表的同一年,宫冈也发现了这个不等式,用的是完全不同的方法。(照这么说来,宫冈洋一比丘成桐还是要低一个档次啊?哎呀呀)
        扯这么多的八卦,只为引出我们导师的大作《反「法医工文」論》,这篇文章出现在东大数学科自己面向毕业生发行的季刊《数理News》2008年第二期的封面上,我在暗地里读得偷笑不止。啊啊,这整篇文章里贯穿的锐气——或着说呆气——我这导师真是比我还要无可救药的理想主义者。我越来越喜欢他了。

     
    反「法医工文」論
    宮岡 洋一          
     

     東大には、学部間の序列を表す「法医工文」という言葉がある。後から分離独立した「薬・経」はともかく、大学発足当初からあったはずの「理」が入ってないのはいぶかしいが、「文」のさらにあとだから無視、ということなのであろう。

     ことの起こりは、明治の元勲(たぶん森有礼?)が、国家経営の枢要に任ずるものはすべからく法律を学び、技官などの専門家を監督して任務を遂行せしめよ、といい、一方では実学を先に虚学を後にすべし、としたことであった。日本の近代化においては官僚機構(と軍隊)がすべての手本だったから、「法医工文」の序列はひろく政財界にまで浸透し、日本社会には文系/実学尊重、理系/虚学軽視の風潮が牢固として存する。

     文系 vs 理系の例をあげよう。ある友人によると、理Ⅰに入学したとき、文Ⅰに進んだ高校の同級生から、「お前の一生、工場長どまりだな」といわれたそうだ。雑誌などに載っている生涯賃金比較でも、理系は文系よりかなり不利である。勉強量がより多くて大学院にまで行っても、収入が低くて、トップに上がり詰めることもできず、おまけにネクラのイメージまである、となれば、「理系離れ」が起こらない方がどうかしている。

     理系軽視のせいかどうか定かではないが、日本人の科学知識の水準は意外に低いのだそうである。日本人は算数が得意で教育程度が高い、とは実は錯覚で、学校で習った数学や理科の内容は、実生活における生きた知識になっていない。血液型による性格判断とか根拠がない種々の瘦身法、はては水子供養みたいな擬似科学・迷信が日本のように横行しているところは、先進国のなかではほかに米国くらいなものだという。

     実学 vs 虚学については、これはもういうまでもあるまい。科学の発見と聞いて国民が必ず発する決まり文句、「それは何の役にたつんですか」を思い浮かべればよい。行政においては、「科学」は単独ではまず用いられず、「科学技術」の形でしかでてこない。すぐ金にならない理論研究はやるべからず、といわんばかりである。こうしてみると、数学なぞは、理系で、かつ虚学のなかの虚学なのだから、「二次方程式なんて、一生一度も使ったことがないし」といった放言が、「識者」の発言そして通用してしまうのも、わが粟散土倭国においては無理からぬことなのかもしれない。

     しかしながら、日本社会に深く根付いてしまった「法医工文」的価値観は、外国の模倣に狂奔するのに精一杯だった戦前や戦後高度成長期ならともかく、現代ではもはや時代遅れなのではなかろうか。官僚の中枢をいまなお法学部出身者で固めているのは、どう考えてもおかしい。格段に肥大してしまった行政組織は、法律や行政学しか学ばなかったゼネラリスト(じつはゼネラリストにすらなりえないと思うが)の手に余るのではないか。たとえば、財務省幹部のほとんど誰も金融理論の原理がわかっていない現状では、未曾有の国際経済危機に対応できるのか、はなはだおぼつかなかろう。また国の責任が問われた薬害エイズ訴訟では、旧厚生省の担当課長こそ有罪とされたが、その上司である薬事局長は無罪であった。判決理由がふるっている。局長は薬学や疫学の知識がないのだから責任は問えない、というのである。職務に関する専門的判断もできないものが局長という職を占めるという制度が、そもそも変ではないのだろうか。

     わたしにいわせてもらうと、日本をよくする道は、理系/虚学を大切にすること、これに決まっているのだ(もちろん「虚学」というのは基礎科学・理論科学という意味で、趣味に走った道楽ということではない)。

     通商産業政策や国土環境保全の面で、日本が大きなあやまちを犯して来た一因は、高度に発展した科学を指導層(具体的には官僚)がきちんと理解していなかったことにある。翻って外国を見てみれば、フランスでは工兵学校である Ecole Polytechnique の卒業生が大統領・首相を勤めることがめずらしくなかったし、現在の中国政府要人の過半数は理系出身者である。一方で、実学、特に理系のそれは、あっというまに古くなる。指導者に要求される大局的かつ長期的視野を養うためには、目先の応用にこだわらない基礎学問の方が適しているのだ。

     最近文科省あたりが盛んに「キャリアパス」ということを唱えているようである。しかし、先ず隗より始めよ、だ。国家公務員の幹部候補生の半数を、理系の基礎科学を学んだ人材、それも修士号博士号を取得したクラスを採用するようになったなら、崩壊寸前の官僚機構に新風を吹き込むだけでなく、深刻な理系離れにも歯止めがかかり、日本国家の衰退を少しは遅らせることになろうというものだ(おまけに、東大数理にとってもめでたい話、とは、これはいわぬが花か)。